小林道夫×高橋悠治 ー波多野睦美が聞く 二人の音楽家の再会ー

メゾ・ソプラノ歌手、波多野睦美が聞き手となり、ある対談が実現した。
伝統的なレパートリーを深めてきた小林道夫と、前衛音楽の先駆として歩んできた高橋悠治。
対談にいたるきっかけは小林道夫から波多野睦美への一通の葉書。
そこに書かれていた、印象的な一言だった。
聞き手:波多野 睦美 文・編集:石川 真妃
記憶のぬくもり
『今の私があるのは高橋悠治のお陰です』
小林道夫先生からのお葉書にあった一文です。高橋悠治さんと共演したCD《冬の旅》をお送りした際の、お返事に書かれた言葉。この一言が、私(波多野)の心にずっと残っていました。
日本の音楽界を支えてこられた、小林道夫先生と高橋悠治さん。お二人の間でどんな時間が持たれ、先生のあの言葉となったのでしょうか。このことを直接うかがう機会が今夏、めぐってきました。
対談の日は、実に65年ぶりの再会だったそうです。笑顔で握手をかわされると、小林先生が待ちかねたように「あの時のあなたの言葉がね」と語り始めます。
「東京二期会の演奏旅行先で同じ宿になったことがあったでしょう。あの頃の僕は、声が掛かればピアノを弾いていたけれど、滋賀で会社勤め※をしていた。たまたますれ違ったあの宿で悠治さんが 『なんでそんなところにいるんだ』と言ってくれてね。あなたの夜行列車の出発までの間、いろいろと話してくれた。それで、やっぱり音楽の道に戻ろうと思ったのです」
悠治さんの記憶は少し違っていたようで、「小林さんがね、ピアノをやめるって言っていたから、そんなのダメだよ、音楽やめないほうがいいよって話したつもりだったんだけどね」と、少し照れたように笑っておられました。
1960年頃、若き日のお二人はコレペティトーア(稽古ピアニスト)として、東京二期会で仕事をしていたそうです。演奏旅行先の宿で偶然に共有した数時間、そこでの会話が小林先生の分岐点となった__
その後、お二人それぞれの道を進まれ、日本の音楽界における大きな存在となられたのは周知のことです。
音楽とともに歩んできた時間
お二人が二期会のピアニストを務められた頃は、まだ稽古場も幼稚園を借りるなどして様々な工夫のなかで公演が行われていたとか。オペラ演目の他にも、中山悌一氏(大分県出身・二期会創設者)、立川清登氏(大分県出身)らのリサイタルでのピアニストも務めていたそうです。
「中山先生から“八分音符もちゃんと刻めないのか”と叱られたりもしてね。《冬の旅》の第1曲目のあの音符ね」と小林先生。その横で静かに先生の語りに耳を傾ける悠治さん。同じ時代の空気を吸った方々の無言の対話がありました。
音楽の現場に長くいらっしゃるお二人に、現在どのように演奏と向き合っているかをうかがうと、悠治さんは「音楽がひとりでに音楽をしている、そこに立ち会っている、というのがいいんだよね」
小林先生は「まだ音楽にぶら下がってる感じかな。弾き慣れたものでも、いろんな経験をしてきた目で、感覚で、どう表現できるか…今も一生懸命。必死でやっています。でも本番中だけは、ちょっと居直れるようになってきましたね」と微笑みながら話してくださいました。
初共演に寄せて
小林先生との初めての共演を、ふるさと大分で行うことができるのは、声楽家としてこの上ない幸せです。プログラムは、この10年高橋悠治さんと演奏を重ねてきた《冬の旅》。
ヘルマン・プライをはじめ、たくさんの名歌手と演奏してこられた小林先生が「これまでのすべての経験が実るように努めたい」と語られました。そのお言葉に背筋が伸び、心がすすがれます。
常に新たな歩みを続ける小林先生との《冬の旅》を、みなさまとご一緒できますように!
※W.M.ヴォーリズ(建築家・実業家)に誘われ、近江兄弟社に勤務。

巨匠たちとともに。鍵盤楽器奏者の小林道夫先生(中央)、作曲家・ピアニストの高橋悠治さん(右)、メゾ・ソプラノ歌手の波多野睦美(左)。ピアノの傍らで、深い音楽の対話が静かに響くひとときでした。
information
(全席指定)
- 未就学児入場不可
- 無料託児あり
この記事は「びびNAVI vol.111」で掲載された記事です。
五感の翼が広がる総合ガイド誌「びびNAVI」は、iichiko総合文化センター及び大分県立美術館の館内ほか、県内や隣県の公立文化施設などで配布中。
